「ソーシャル」なサービスが興隆したこともあって、従来型のマスコミに頼らずに現場の情報が入手できるようになりました。当事者の弁が聞けるようになったし、マスコミの舞台裏も見えるようになりました。
twitterだのなんだのっていうツールを活用していると、アフリカの当地のようなネット接続環境が悪くて動画なんかのリッチコンテンツの閲覧が難しい場所にいても、世間で、社会で、世界で起きていることについての最新のニュースやその当事者の弁、さらにそれについての専門家の分析から識者の評価、一般の人々の反応まで見ることが出来る。
一時情報に近いところに誰もが立てて、興味のあることについては深入りして調べることもできる。機械が手足の能力を拡大し、自動車の普及によって人の移動能力が拡大したのと同じように、ネットによって人の目や耳といった感覚器の能力が拡大されたような感覚です。
ただね、毎日、たくさんの情報に接して、そのそれぞれの事象にすでに多くの人が多くの意見を述べ、分析し、評価をしているのを見続けると、それじゃあ果たして自分はどう考えるのか、ということに結論を出すのが随分難しくなったように思うんです。
「それもそうだ。」「そっちの言うことも一理ある。」「でも現実はそうだよね。」「やっぱりおかしいんじゃない?」
みんなもっともらしくて、「私」の意見はどうなのか決めかねる状況が増えているような。
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なにかの計画を立てたり、なにかについて論説したりするときに、手元に資料を集めて机上で検討しているときには、思い切った結論を述べたり、立派な理論を主張したりできるのに、その現場に行って生の声を聞いて現実を深く知ってしまうと、途端に歯切れが悪くなるというのは何度も経験したことがあります。「そうは言っても、これが現実だからねぇ。」「お言葉ごもっともだけど、でもさぁ。」そんな感じです。
現場にいる人々に対する情に流される、というのも多分にありますけど、机上で考えていたときには見えなかったことが見えてきて、考慮に入れるパラメーターが増えて判断が難しくなる、という感覚ですね。
ネットが社会のプラットフォームとしてこなれたものになってきて、これと同じ感覚を覚えます。机上、というか端末の前に座ってしまうと、現場に行っていなくても現場に近いところからの声が聞こえる。さらにそれに対する多くの意見も聞くことが出来る。
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ネットの普及によって、だれでも擬似的に現場を見ることができる。少なくとも現場に近いところの人の声が聞ける。これは素晴らしいことだと思うよ。でも、他方では今まで以上に「私」の判断力が試されているように思います。
「じゃあ、あなたはどう考えるのか。」
たくさんの情報が入手可能になった分だけ、パラメーターが増えた分だけ、考える力がシビアに試されるようになったよね。
「考える力」「賢さ」、さらに言い換えれば「教養』「英知」っていうのは情報や知識を溜め込んでいるのとは違う。情報や知識を持っていることは前提条件で「考える力」っていうのは次元の違うことだっていう、当たり前のことを改めて認識しています。
と、ごにょごにょ御託を並べてますが、要は「頭がいい」と「物知り」がイコールではないってことは、ネット社会になって一層痛感させられるよね、って話です。
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